薄氷(はくひょう)

 

雪がちらほら降っている。緩やかなカーブを不規則に動きながら、時には

風に流され惰性で移動しながら落下している。

俺は白い息を吐きながらコートに手袋を付けた手を突っ込んで背中を丸めて

歩いていた。

 

よくいるんだよな、カップルが。これみよがしにひっついて歩いて嫌がる。

こういう場面を見てむしゃくしゃしている奴も多いだろう。

それにしても寒い。

仕事はあるので金はあるが、今はまだ陽も高い……とはいっても曇り空だが

今から酒を飲んでクダを巻いていてもしょうがない。

 

 公演を通りかかった。カップルがやはり多いが暖かい缶コーヒーでも買って

俺はベンチにこしかけた。

この寒さの上に雪まで降っているのでそう人は多くないが……ん?

 

 池が凍っているのだが、その上にちょこんと女性が乗っている。危ないな。

俺は近くへ寄って声をかけてみた。

「おい、下手すると割れて落ちるぞ」

すると女性は俺が声をかけるのを待ちかけていたようににっこり笑った。

アヒル口とでも言うのだろうか。男をたぶらかす口をしている。

それより落ちても何とかなるなと思ったのは、女性が薄着だった事だ。

長袖のTシャツにGパン? 寒くないのだろうか。

ニットだけは毛編みのものをしているが。

髪は肩まであり茶髪でカールしており、目はぱっちりしている。

 

「ナナ、落ないよ?」

「え?」

こいつはナナというのか。

 

「だってナナ軽いもん」

「そうか、勝手にしろ」

 

俺は変な奴が嫌いだ。家へ帰ろう。ホットコーヒーの空き缶をきちんと

設置されているゴミ箱にコンと入れる。

「ねえお兄さん、イライラしてない?」

アヒル口が開く。

「そうだな……してるかもな」

俺は見上げる。雪がちらほら降っていてこれはこれで趣があり、イライラはどこかへ

すっ飛んで行ってしまっている事に気が付いた。

「イライラは……してないな」

「そう、男はケダモノだから色々と飢えてるハズだよ?」

「そんな事無いよ」

俺は彼女を見る。まっすぐに見つめてくるその目、可愛い。

「ちょっと変な話があるんだ」

「話?」

「うん、ナナの仕事の話だよ」

「興味無いなぁ。といえば嘘になる。今日は木曜日だ。俺は仕事が休み。

お前は何をしているんだ? 何の仕事をしているんだ?」

「ナナはね、殴られ屋」

「殴られ屋?」

「そう、三〇分一万円だよ? やらない?」

 

 俺は考えた。殴らなければいいのだ。話し相手になってもらえれば

それで良いではないか。

「買った、ほら」

俺は迷う事なく一万円札を突き出した。

ナナが氷の上からヒョンと芝生の上へ飛んできてそれを受け取る。

 

 

 俺は路地裏へ連れて行かれた。途中で美人局のようなものだったら

嫌だなと思ったが、着いたのはビルとビルの間で、誰も寄り付かないような

場所で人の隠れるような場所もなかった。

 

「じゃあ準備するね」

ナナはTシャツを脱いだ。

 

 

「お前……」

俺が驚いたのはその腹筋にでは無い。アザだらけの体だった。

「お前これ殴られすぎだろ」

「ね? 男はケダモノだからここまでやっちゃう」

「俺は別に殴ろうと思ったわけじゃない、ただ30分、お前の30分を

買っただけだ」

「ふーん、そう? 一応ボクシンググローブを付けて、決まりだから」

俺は赤いグローブをつけさせられた。

ナナは上半身むき出しで乳房を露にし、マウスピースを口に入れた。

「いやさ、俺、ボクシングフェチなんだけどさ」

「おー、じゃあナナを殴ったらいいよ、ヘッドギアしてないけど顔も有りだよ!?」

「う、ううん、殴るつもりは無い。使用済みマウスピースを後でくれ、後写真も一枚」

「殴らなきゃ駄目だな、ナナはしっかり仕事したいもん」

「いやだから俺は」

 

 

「兄ちゃん!」

突然背後から声がした。振り返るとスキンヘッドの怖いお兄さんが立っていた。

「すまん、話聞かせてもらった。時間無いんでな、殴らないからお前の一万円俺が払って

そこのナナにも一万円払うから、チャッチャとやらせてくれんか!?」

「俺はそのっ!」

「何か?」

駄目だ、凄まれた怖いお兄さんには太刀打ち出来ないぞ」

「まあ見てていいからよ。好きなんだろ?兄ちゃんも」

そう言って怖いお兄さんは俺のコートのポケットに一万円をねじ込んできた。

 

 

ドスッ! ドスッ!

えげつない。背はビルのコンクリートで、マウスピースを吐かせないように左手でナナの口を塞いで

怖いお兄さんは右拳でボディをひたすら殴っている。

「んっ! んんっ!」

蓋をされたグローブの隙間から唾液がボタボタ落ちてきた。

「こうだ! 畜生! こうだ! 上司の奴俺をイライラさせやがって! こうだ!」

男は上司に恨みを抱いているのか、ひたすらそう言いながら殴った。

ナナのボディはひたすらアザになっていく。アザの上にアザが出来ていく……。

「うげっ!」

俺はその場に吐いた。

「兄ちゃんには刺激が強かったか? ボクシングフェチといっても本物の殴り合い……とはいっても

一方的なもんじゃけど、刺激が強かったか?」

「は、はい」

俺はやめてくれとは言えなかった。彼女は金を受け取ったし、仕事をしているのだ。

ドスッ! ドスッ!

一撃一撃にナナの体がビクンと反応し、足を上げる。

「ふー、お前は腹筋が強いな、鍛えられていい感じの殴りごたえに最近なって来たぞ」

怖いお兄さんは満足したようにグローブを外した。

「ほら兄ちゃん手ぇかせ」

「え?」

俺の手が引っ張られて、その場に蹲るナナの口の前へ持ってこられる。

「ほら、ナナ、この兄ちゃんにマウスピースやれや」

「うぼへっ!」

 

俺の手の上に大量の唾液と純白のマウスピースが吐き出された。

「どうだ兄ちゃん、おみやげだ。ラッキーだな」

「は、はい」

俺は戸惑うばかりだ。

「今日は何人客とった?」怖いお兄さんはナナに言う。

「さんにん……」

消えそうな声。

「ほら兄ちゃん、三人分のサンドバッグになった唾液が染み付いとる。レアじゃないか」

俺はその言葉に情けなくも勃起しそうになった。

 

 

家にどう帰ったかは覚えていない。時間だけが過ぎていた。

これも本当に情けないが、その時間を得て唾液臭くなったマウスピースでオナニーをした。

これ程無いというほどに射精をしてしまった。ナナの顔を思い浮かべながら。

そして割れたアザだらけの腹筋にパンチがめり込むのを想像しながら……。

両手とマウスピースにぶちまけられた精子を拭き取ると暖をとりながら物思いにふけっていた。

自分の気持ちをゆっくり整理する事にした。

 

 

私は今日も凍った氷の上に立つ。

シンデレラコンプレックス。誰かが私をいつか迎えに来てくれる。そんな病気を直す私のこの仕事。

わかってる。白馬の王子様は現れない。

さむいな。

さむいな。

今日も私は殴られるんだ。

男なんて決まって暴力的で王子様のように品なんか無い。

これが私のシンデレラコンプレックスを治す治療。

現実。

 

そんな事を考えていたら昨日のお兄さんが公演に入ってきた。

休みは昨日の木曜日じゃなかったの?

昨日のコート。そのままほうっておいたのを着てきたようにヨレヨレ。

何かを抱えている。差し入れ?たまにもらうけど。キャバ嬢のようにアッサリ受け取って

嬉しーっ! って喜んだふりをしよう。きっと服か何かだろうな。

本物の王子様は花束を抱えて来るはずだもの。

いけない、またシンデレラコンプレックスがひどくなりそう。とりあえず笑顔笑顔。

 俺は仕事を休んだ。上司には風邪だと言っておいたがひどく小言を言われた。

やはりというか、今日も彼女は凍った湖の上に立っている。

その姿はフワフワ降っている雪の中で消えそうで。

愛おしいといったら嘘かな? 昨日出会ったばかりだし。

しかし花屋は雪だという理由でえらい丁寧に包んでくれたな、袋を破らなければ

これが花束なんて気がつかないだろう。

 

目があった。俺はできる限り穏やかな顔をして彼女のもとへ向かう。

薄氷の上に立つ、素敵な女性のもとへ。

 

 

                          END