狐火

 

私(珠子 たまこ)は孤島に住んでいる。道路は通っているが

一晩中寝ていても車が通らないので轢かれない。そんな田舎な場所だ。

街頭なんて無い。皆は朝早くに起きて日が落ちるとすぐに家に帰って色々と家事をこなす。

テレビを付けて大人は晩酌でもしながら他愛の無い話をしている。

私は高校を卒業という頃で、毎朝船で本土を行き来していた。

小中学校も無いが、島民に私意外に子供はもういない、遊び相手がいないのだ。

 

「どうだい? やっぱりこの釣竿買って正解だったな」と、祖父が言う。

火のついていない囲炉裏を囲んで話があると呼ばれたのだが、まさか釣竿の自慢をされるとは思わなかった。

「うん、よくしなって、いいんじゃ……ない?」

私は適当に話を合わせると、祖父は釣竿を置くと溜息をついて言った。

「珠子やぁ、卒業したら東京へ行くんか?」

その話か。

「うん、反対されても、ウチには夢があるけぇ」

「夢っちゅうてもなぁ……ここには残らんのか?」

「うん、東京行くってもう決めちょるけぇ」

ふと祖父の顔が暗くなった。

「そうか、お前の両親が事故で無くなってから面倒見てきたが、いなくなると寂しいのぅ、寂しいのぅ」

祖父は心底沈んだ声で言った。

「最初は大変。女子ボクサーのライセンスっていう、証明書?

 みたいなのをもらう。それから本格的に試合できるけぇお金が入る。仕送りもするけぇ」

「そうか……」

私は祖父の私によそへ行って欲しくない気持ちは痛いほどわかる。が、私だって青春を楽しみたい。

楽しみたいし、早くプロボクサーになって仕送りをして祖父や祖母を支えたい。

「健闘をやりたいって、女で務まるのか?」

お酒も入っていないのに祖父は今日はやたらしつこく聞いてくる。

 

「今は女も健闘やる時代じゃけ、やれる事はやる。ひょっとするとウチもテレビに出れる程になるかもしれんよ?」

 

「芸能人にならんでもええ」

 

「ちょっと違うんだけどね……でもこれはウチの夢じゃけぇ……」

 

「ワシらを置いて行くんか」

「連れて行くわけにもいかんもん。この島にはかかりつけの医者もいておじいちゃんの体の事、よーく知っちょるじゃろ?」

 

「まあ、そうじゃがの」

 

「おじいちゃん、ちょっと寒ぅなったね」

 

「ああ、寒うなった。じゃけど漁には朝早く出なきゃならん。ワシらも食っていかんとならんからな」

 

「じゃあ、話はこんな所?」

 

「あ、ああ。ちょっと寂しゅうなって話したかったんじゃが、

お前は子供の頃から自分のやりたい事にはがんと言うこと聞かんのは知っちょるけぇのぉ」

祖父はそう言うと自分の横にあったおぼんの上のとっくりに入っている日本酒をちびりちびりとやりだした。

「珠子」

祖母の呼ぶ声が聞こえる。

「ちょっと、おじいちゃん、失礼するね」

「ああ……」

 

 

「何?」

祖母のいる台所へと足を運んだ。

「そろそろ卒業じゃろ?」

「うん」

「東京って暮らすの大変じゃろ?」

「うん、大変だと思う」

 

「これ、必死に貯めたんじゃけど」

祖母は封筒を出してきた。

中には二十万円入っていた。

「おばあちゃん! これ!」

「ええのよええのよ、頑張って、その……プロになったらお金送ってくれなぁ、

それと健闘っちゅうから、頭打って阿保にならんようになぁ」

「ありがとう!」

実際に私は金欠だったのでありがたくそれを受け取った。大事に使わなければ。

そして一〇時。早寝が週間になっているので私はとたんに眠たくなって来た。

私の部屋には常に布団が敷いてある万年床なので、もう寝てしまおうか。

 

私は祖父にもらったお金を通帳にはさみ、ゆっくり寝る事にした。

 

 

「おい、おい」

 

 

「おい、おい」

 

私は気持ちよく寝ていた所を揺り起こされた。

目を開けるとひどく驚いた。

着物を着た子供の背格好で狐の面を着けた者が私を揺すっている。

「誰っ!」

私が叫ぶとその狐は身軽にひょいと縁側の方へ向かって走っていった。

「おじいちゃん、おばあちゃん、変なのが出た!」

私が叫ぶが、家からは何の反応も無い。

おかしい。

台所へ行くが、明かりがついたまま誰もいない。

祖父と祖母の寝室へ行くが誰もいない。

私は焦り、裸足で外へ飛び出した。

今何時だろう。それにしても何か事件が有ったらえらい事だ。

ここの島民は基本的に施錠をしていないので隣のおばちゃんの家の引き戸を開けて呼びかける。

「ねえおばちゃん! 何か変なの!」

これを繰り返した。色々な家で。結局どの家にも人はいなかった。

 

私は何か異次元のような場所に孤立してしまったのかと思った。

ひとまず家へ帰る。

頭を捻る。そういえば人はいないが家が荒らされていない。強盗でも無いし……そうだ。

気になるのはあの狐の面の子だ。確か縁側から山へ走っていったはず。

私は縁側から走って山を登る。

しばらく走っていると光が見えてきた。

 

 

 

火?

 

私は思い出した。

人間は異世界にたまに迷い込む。

そんな時、普通はに見えない狐狸妖怪の類を見る事がある。そう聞いたことがある。

この島で言い伝えられているのは狐火だ。

そうだ、これは狐火だ。

火のようにめらめらとは燃え上がっておらず、丸い赤い光が消えたり出現したりしている。

「狐火に出会ったら近寄っちゃならん、障るからの。じゃが見てるぶんには無害じゃ。

 

そいうものも、いつかお前も見るんじゃろうなぁ」

その祖母の言葉を思い出した私は、そこへ突っ立ったままその光を見ていた。

出ては消え、出ては消え……。

蛍より幻想的だったかもしれない。

数は四〜五十はあるが、移動する様子も無い。

近寄らなければ良いのかと見ていると、私は急に元の世界に戻れなくなるのではと不安になった。

走って家へ帰り、足を洗うと布団へ潜り込んだ。

目を覚ませばきっといつもの世界に戻っているに違いない。

走って疲れたせいで、たやすく眠りにつくことができた。

 

 

翌朝、何の変哲も無い一日が始まっていた。祖母が朝食を用意して、

三人で机を囲んでの朝食。あえて昨日の狐火の事は言わなかった。

 

そして時間は流れ、東京暮らしが始まった。

ボクシングジムでトレーニングをして、生活費はコンビニのバイトだ。

だがボクシングジムをきちんと選ばなかったのが私の失敗だった。

二十才の私の他は全員男性。

スパーリングでもわざと抱きついてきたりして、練習にならない。

それでも頑張った。

 

頑張ったが、最初のプロテストは落ちた。自分がこんなにも緊張して体が動かせない人間とは思わなかった。

ジムの人達には励まされたが、皆揃って私の体を狙っている。

 

私は見てしまったのだ。

スパーでしていた私のマウスピースを洗ってくるといって持っていった男を追って洗面上へ行くと、

匂いを嗅ぎながらマスターベーションをしていた。やはり私は皆から見て性の対象なのか。

 

それからどんどん状況は悪化して行った。

バイトでは暮らして行くお金が出来ず、ジムにお金を入れる事がなかなか出来なくなってきた。

「いいよいいよ、あるときで」

そうオーナーに言われるのはありがたいのだが……私は彼らの性のはけぐちなのだ。

「トランクスまとめて洗っておくから置いていって」

とオーナーが言い、皆がトランクスを置いて行くのだが、

裏でこっそり私汗のたっぷり染み込んだトランクスを金で取引している場面を何度か見た。

「いいよー、もっとやっちゃってー」

そんな声の中、暴力的なスパーリングも過激になって行った。

顔が腫れるまで殴られる。ストレスのはげぐちにもなっていた。

そしてその時に生産さらた血と唾液の染み込んだマウスピースやトランクス、スポーツブラを裏で売られる。

 

 

 

精神的にも限界になっていた。

他のジムに移ろうにもお金がない。

お金……。

おばあちゃんのくれた二十万円が現金で有る。

これで……これで何とかなるだろうか。

私は他のジムに行こうとした。だが。

 

「知り合いのジム多いんだけどさ、お断りしといたほうがいいよってまわりに伝えてあるんだよね」

とのオーナーの言葉。

確かにどこのジムへ行って門前払いをされてしまうので本当なのだろう。

私に、何ができるのだろうか。

 

二度目のプロ試験。

 

落ちた。

 

私はもう精神的にどうにかなってしまいそうになった。

居場所が無い、居場所をいえるのはこの小さなアパートと、私を玩具扱いする汚いジムだけだ。

私はじきにジムにもバイトにも出なくなった。

 

梅雨のしとしと降る雨を聞きながら部屋の隅で体育座りをして死んだような目をしてぼーっとしている日が続いた。

 

そんな中、祖母の訃報があった。私は島へ一度帰る事にした。

 

葬儀を一通り終えた。私は悲しさのあまり、何を言って良いのかわからないが、小さくなった祖父の背中を触った。

祖父の思ったより大きな手が私のその手をがっしりと掴む。

「こっちへ帰ってこい」

優しく、祖父はそう言った。

 

 

「うん」

私はそう返した、この島に戻ろう。戻ってまた何かをやり直そう、そう思った。

 

 

 

ある晩、居間で祖父と日本酒を飲み交わしていた。

 

「おまえは狐火を見たことがあるか」

 

「えっ?」

 

「きつね火を見たことがあるか?」

 

「狐火……あるかな?」

 

「そうか、どうだった?」

 

「どうだったって?」

 

「そりゃあ不思議なもの見たんじゃけえ、何らかの感想はあるじゃろう」

 

「うーん、幻想的じゃったよ?」

 

「そうかそうか」

祖父が天井を仰ぎ見る。

 

「ばあさん、そろそろ話してもええかの」

 

「え?」

 

「……お前が見たのは狐火じゃねぇ」

 

「えっ? えっ?」

 

「お前が東京行くって時になぁ。まあうちの婆さんが言い出したんじゃけど、狐火を見せてやろうっちゅう話になってな」

 

「う……ん」

 

「近所の全員を集めて山へ行ってな、懐中電灯に赤いセロファンを貼り付けてつけたり消したりしたんじゃ」

 

「何でそんな事を?」

 

「そりゃあ、婆さんがそれをお前の島での思い出にしたかったからじゃないかのぅ」

 

それを聞いて私は目の前が少し滲んできた。他界したばあちゃん……。

 

「知っとるよな? 狐火の意味を」

「うん……ここを去らないで欲しいっていう妖怪の意思表示」

 

「だな。それもばあさんが、伝えたかったのかは今となってはわからんが、お前が見たのは狐火じゃねえ、気分壊したか?」

 

「いいや」

私は清々しい顔で言った。

 

 

そう、当時は子供は私しかいなかった。

あの時着物を着た狐のお面をかぶった子供。

あれ、誰なんだろう。

考えると、少し気持ちが暖かくなった。

 

どうやら私はこの島にいて良いらしい。